カリスマとフィギュア

ここまで考えて私はやはり不安を抑えきれなくなった。
萌え市場に手を出した時点でアイドル産業は終わるのではないかと
感じられるからである。もとい、歌手としての芸能活動は
完全に終了すると確信しているからである。
声優という職業は恐らく代替の利く物だ。
優れた作品は、声優が亡くなっても新たな声優にバトンタッチして
番組自体は続行する。アニメファンにとって声優とは絶対不可侵の
領域ではない。キャラらしい色、ファンの眼差しに合った色が出れば
カツオの声が富永み〜なになってしまってもあんまり違和感ないのが
実際のところなのだ。むしろ非常に上手いので感心してしまうほどだ。


しかしアイドルや歌手というのはそのように代替が利くものだろうか。
かつて岡田由希子が果てたときに自殺する若者が絶えなかったのは
彼女がファンにとって絶対不可侵のアイドルだったからに他ならない。
今回のハロプロの売り方は自らアイドルの不可侵性を捨て
代替可能な、挿げ替えの利く、御都合主義且つ個性のない、
あなた色のフィギュアを販売するようなやり方だった。
もっと言うと無色透明な者であれば久住である必要すらない
ポリシーのない、プライドを捨てた、恥さらしの売り方だったといえる。
このような商業戦略に推しメンが起用されなかったことは
むしろ幸運だったとすらいえないだろうか。


落ち着いて考えてみよう。
我ら猫ヲタは別の役を演じる田中れいなが見たいか?
否。れいな本人のあふれる個性がたまらなく好きだから
声を大にして叫ぶのであろうれいにゃあああああああああああああああと
れいなはれいなの歌を歌っている。これはとても幸せなことだ。


冒頭で私は音楽を数で語るといった。
しかしその仮定がそもそも間違ったものであることを
猫ヲタ、紺ヲタ、さゆヲタを初めとする全ての
音楽を愛する人たちの前でもう一度確認したい。そして藤本ヲタよ。
歌はその歌い手の口から切実なる思いと共に出たときに
初めて人を感動させるものだということを。
心を込めて歌った歌が例えば売れなかったとしても
それは表面だけ取り繕った張子の別人格が売れることより
よほど名誉なことではないのか。


売れなければ次が出ない、よって我々は数を気にしがちであるが
代替可能な世界で個を捨てて売り上げてもやはり次はなかろう。
未来に同じ暗雲しかないのならどちらをとるべきか
よもや論ずるに足らないと思うが、
もしも続けて久住小春が売り続けることが出来るのなら
それこそが本当のミラクルなのかもしれない。。。