ローラを丸裸にするブログ〜徹子襲来〜

十代後半から二十代前半にかけての青春時代は、若者にとって
自己と他己、或いは他己同士をを最もよく比較差別化する時代である。
目覚めたばかりの性的欲求から
花が色づき、鳥が目も覚める歌声で啼くように
若者の視線は美しい異性を求め続けるし、
ライバルとなる同性に負けぬような自分にも注がれていく。
この自己と他己の比較が過剰なまでに熱を帯びると、
行き過ぎた自己否定や他己批判に繋がることになり
敏感な青年の心理が過大な圧迫を受ける場合も多々生ずる。
実はみんながこうした葛藤を乗り越えて大人になっていくものの
当事者たちにとっては出口の見えない迷路のようなものであり、
若者の自殺の一因にもなり得るし、大げさなところでは
精神病というカテゴリによる医療的解決を模索するものも出始める。


最大の課題は如何にして「見られる自分」「他人に意識される自分」を
自分の納得いく形で構築出来るかということなのだが、
性欲が邪魔しているうちはなかなかうまくいかないものだ。
他己にない余りにもオリジナルな価値付けを行おうとして
逆に客観的な視点を欠き、珍妙なファッションになったり、騒音をあげたり
おかしなダンスを踊ったりといったような失敗は誰にでもあるはずだ。
このようなタイプを私は「攻撃的アイデンティティ構築」と呼んでいる。


逆にこうした失敗を恐れるあまり、常に流行の先端を追ったり
実際に他人の理解を得ることや、ブランドの名前に頼って
自分の正しさを補完しようとするタイプも考えられる。
オリジナリティをある意味排除して
風景に溶け込むことで自分への批判をそらそうとするのだが、
それは心に鎧を纏って剥き出しの自己をなるべく表に出そうとしない
「防衛的アイデンティティ構築」ある。


無論ある人が必ずどちらかのタイプというわけではなく
両者を場合に応じて使い分けていく人もいるだろう。
ローラの場合、タメ口な喋り方やプクッと膨れたポーズ、舌出し、
徹子に突っ込まれたところは全て「攻撃的」な部分であると言えるだろう。
一般的にいうところの「普通の人」はまずやらない、オリジナルな、
「普通の人」から見れば過剰で珍妙とも取れる行為だからである。
しかし私がここで興味深いと思ったのは、それら珍行為が
カテゴライズの上では間違いなく「攻撃的」であるにもかかわらず、
ローラ本人からは「防衛的」としか読み取れない反応が
随所に見られることである。
厚化粧していても頬が紅潮していることはわかるし、
はじめの方の会話が噛み合わず、「ウフフ」が入るタイミングも
どことなくぎこちなく感じた。
明らかに徹子の前で、自分自身が芸能人としての
「ローラ」を演じることに無理があると感じているフシがあるのである。
積極的にオリジナリティをアピールしているわけでなく、
むしろ羞恥心や、それをかき消さんとするこれらの反応は
防衛時にしか見られない特徴的な行動だ。
おそらくは、ローラのキャラ作りは多分に攻撃的だが、
「ローラ」としての人気を博したことで「ローラ」がブランドとなり、
「本当の彼女」が「ローラ」のブランドを防衛的に使用しているのだ。


ここまで読み取ったとき
私は、素のローラの全身をベロベロ舐めまわしたいと思うほど可愛いと感じた。
芸能界という世界は何か際立った特徴がないと生き延びていけない。
彼女は性欲衝動ではなく職業的な必要性から攻撃的な特徴づくりを
強いられていたのだろうが、
ローラのキャラが余りにも流行ってしまったため
後戻りができなくなってしまったのだろう。
ここに至って初めて本当の自分を発見できたのである。
ローラのキャラに無理を感じる自分を。


彼女の人気はモデルという手の届き難い職業にありながら
どこかその辺にいそうな人の良さを兼ね備えているところからくるのだろう。
素のままに仕事をすればそれでいい。
鎧の隙間に見える素顔のローラも十分に魅力的だ。