謹賀新年

諸君、あけましておめでとう。
中山靖王劉勝が末孫にして幽州の北斗七星、いつも紺プリである。
突然ではあるがこの場を借りて新年の抱負を述べることとする。
今年の年末は紅白に美貴ちゃんが出てこなく、とてもつまらなかった。
唯一おもしろかったのは志村ケンの馬鹿殿であるが
今年の抱負は志村のコントのように生きたいと思う。


志村のコントとはどういうことか。
新年ということで馬鹿殿が双六をしながら風呂に入り、
多くの衆生はここに目を奪われがちであるが実はそうではない。
なんと、あのドミノ倒しにこそ志村の全てが凝縮されているのだ。
お目出度い遊びをということで馬鹿殿が優香とドミノを並べる。
色とりどりのドミノ。中には倒れると馬鹿殿の顔が出てくる、
きれいなドミノも存在する。
それがだんだん倒れる物が大きくなっていき、
最後にふすまが倒れ、隣室の老中、桑マンの頭頂にヒット。


なんという自己満足、なんというワンパターン。


しかし毎年同じようなものを見せられるにもかかわらず、
なぜ腹の底から笑いがこみ上げてしまうのだろうか。
要は「流れ」だ。
考えてみると志村は当たり前のことをやっているに過ぎない。
ドミノの初めを倒せば後のドミノは勝手に倒れていくものだ。
倒れた先に人がいればその人の頭に当たってしまうのは
全くといっていいほどの自然な、当たり前の、物理現象なのだ。
この当たり前の現象の中に、
「桑マンの頭に導く」という人為を少しだけ混ぜこむ。
すると些細な悪意すらも大きな笑いに変換できるのである。


私は人類の歴史において「人為」の為す重要性を感じている。
しかし人為が自然現象を超えて機能することは
ありえないのではないだろうかと考えたりもする。
人為とは、自然現象の流れに乗ったときに
初めて円滑に機能しうるものなのではないか。
志村のコントではドミノが倒れていく遠大な自然現象の中途に
悪意を少しだけ機能させたことで人々の望みうる結果を得た。


自然>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>人為


この鉄則を志村は踏み外さなかったのである。
拠って私の新年の目標は「流れの中にあること」だ。


狼諸君。
今年もハロプロ滅亡の一途の流れの中で諸君らの推しメンを叩くだろう。
覚悟をしていてくれ給え。